全一章・(その18) 泉鏡花作 |
門前仲町で下りたのは ーー 晩の御馳走 ‥‥‥ より前に、名の蛤町、大島町かけて、魚問屋の活船に泳ぐ活きた鯛を、案内者が見せようといふのであつた。 裏道は次第に暗し、雨は降る。 ‥‥‥ 場所を何う取違へたか、浴衣の藻魚、帶の赤魚、中には出額の目張魚などに出連ふのみ。鯛、鱸どころでない。鹽鰹のにほひもしない。弱つたのは、念入に五萬分一の地圖さへ袂に心得た案内者が、路は惡くなる、暮れかゝる、活船を聞くのにあせるから、言ふことが、しどろもどろで、 「何は、魚市は? ‥‥‥ いや、それは知つてゐますが、問屋なんで。いえ、買ひはしません。生きた魚を見るのでして、えゝ死んだ魚 ‥‥‥ もをかしいが、ぴち/\刎ねてる問屋ですがね。」 ーー 難とこの通り。刎ねる問屋もまだ可かつた。 「水をちよろ/\と吹上げて、しやあと落してゐる處ですがね。」 「親方 ‥‥‥ 」 ーー はじめ黒船橋の袂で、窓から雨を見た、床屋の小僧に聞くと、怪げんな顔をして親方を呼んだ、が分らない。 ーー 「兄さん、兄さん、一寸聞くがね。」 二度目は蛤町二丁目の河岸で、シヤベルで石炭を引掻いてる、職人に聞いた時は、慚愧した。 「水をちよろ/\、しやあ? ‥‥‥ 」 と眞黒な顔で問ひ返して、目を白くして、 「分らねえなあ。」 これは分るまい。 ‥‥‥ 「きみ、きみ。 ‥‥‥ ちよろ/\さへ氣恥かしいのに、しやあと落すだけは何とかなるまいかね。あれを聞くたびに、私はおのづから、あとじさりをするんだがね。」 「卑怯ですよ。 ‥‥‥ ちよろ/\だけぢやあ意をなしませんし、どぶりでもなし、滔たりでもなし、しやあ。」 いふ下から ‥‥‥ 「もし/\失禮ですが、ちよろ/\、しやあ。 ‥‥‥ 」 通りがかりの湯歸りの船頭らしいのに叩頭をする。 櫛卷を引詰めて、肉づきはあるが、きりゝ帶腰の引しまつた、酒屋の女房が 「問屋で小賣はしませんよ。」 「何ういたして、それ處ぢやありません。密と拝見がいたしたいので。」 「おや、ご見物。」 と、金の絲切齒でにつこりして、道普請だの、建前だの、路地うらは、地震當時の屋根を跨ぐのと同一で、分り惡いからと、つつかけ下駄で出て來て ーー あの蕎麥屋の女房を思はせる、ーーーー 圓々した二の腕をあからさまに、電燈に白く輝かしながら、指さしをして、掃溜をよけて、羽目を廻つて、溝板を跨いで、ぐら/\してゐるから氣をつけて、まだ店開きをしない、お湯屋の横を抜けた ‥‥‥ その突き當りまで、丁寧に教へて、 「お氣をつけなさいまし、おほゝゝ。」 とあだに笑つた。どうも、辰巳はうれしい處である。 問屋は、大六、大京、小川久、佃勝、西辰、ちくせん ーー など幾軒もある、と後に聞いた。私たちは單に酒屋の女房にをそはつた通り、溝板も踏み返さず、塚にも似て空地のあちこち蠣蛤の殼堆く ーー (ばいすけ) の雫を刎ねて並んだのに、磯濱つたひの思ひしつゝ、指さゝれたなりに突き當りの問屋。 ‥‥‥ 店頭に何もない。幅廣な構内の土間を眞向うに、穴藏が暗く、水氣が立つて、突通しに川が透 ーー あすこだ。あれだ。 のそ/\と入つた案内者が、横手の住居へ、屈み腰で挨拶する。 「水がちよろ/\。」 ‥‥‥ をやつてゐるに違ひない。私は卑怯ながら、その町の眞中へ、あとじさりをしたのである。 「さ、おいでなさい、許可になりました。」 活船ーー 瀧箱といふのであつたかも知れない。 ーー が次第に、五段に並んで、十六七杯。水柱は高く六尺に昇つて、潺々と落ちて小波を立てて溢れる。 ーー あゝ、水柱といつて聞けばよかつた。 ーー 活船に水柱の立つ處と。 ーー 濡板敷のすべる足もとに近い一箱を透かすと、小魚が眞黒に瀬を造る。 「泳いでゐます、鯵ですよ。」 「鱚だぜ。」 と、十五六人、殆ど裸にして、立働く、若衆の中の、若いのがいつた。 同伴は器用で、なか/\庖丁も持てるのに。 ーー これを思ふと、つい、この頃の事である。私の極懇意な細君で、もと柳橋で左褄を取つたのが、最近、番町のこの近所へ世帶を持つた。お料理を知つて、洗方に疎だから、 ーー 今日は ーー の磐臺を、臺所口からのぞいて、 「まあ、いゝ鮎ね。」 が、鱚である。翌朝、 「あら、活きた鯉ね。」 と、いはうとして ‥‥‥ 昨日に懲りて口をつぐんで、一寸容儀を調へた、 が黒鯛。 これは優しい。 ‥‥‥ 信濃國蒲原郡産の床屋職人で、氣取つたのが、鮨は屋臺に限る、と穴子をつまんで、 「むゝこの鰌はうめえや。」 以て如何とすると、うつかり同伴に立話をすると、三十幾本の脚が、水柱に大搖れに搖れて ーー 哄と笑つた。紛れ出た小鮹が、ちよろ/\と板敷を這つてゐる。 一同は働き出した。下屋の水窓へ、折から横づけの船から、穴子、ぎんばうの畚、鰈、あいなめの鮹磐臺を、掬ふ、上げる、それ抱き込む、大鯛の溌刺たるが、 (大盤臺) から飛び上つた。 この勢ひに乘じて、今度は、 ‥‥‥ そ ‥ ば ‥ や ‥ ではない。社の高信さんの籌略によつて、一陣の鋭兵が懷に伏せてある。 ‥‥‥ 敵は選ばぬ、それ押出せ、といふと、兜を直す、同伴の頭は黒く見える。 雨をおよぎ出した町の角も、黒江町。火の見は、雫するばかり、水晶の塔かと濡れて光つて、夜店の盤臺には、蟹の脚が白く土手を築き、河豚かと驚く大鯒が反つて、蝦のぶつ/\切が血を洗つた。 加賀家、きん稻、伊勢平と、對手を探つて、同伴は、嘗て宮川で、優しい意氣な人と手合をした覺えがあると頻にはやつて、討死をしようとしたが。 ーー 御党下さい ‥‥‥ お約束はしましたけれど、かう降つて來ては持ち出さないわけには行かない、蝙蝠傘にて候ゆゑ、近い處の境内の初音を襲つた。 「お任せ申す。」 「心得たり。」 こゝに至ると、ーー 實は、二上りの音じめで賣つた洲崎の年増と酒落れた所得を持つた同伴が、頭巾を脱いで、芥子玉の頬被した鵜に成つた。案ずるに、ちよろ/\水も、くたびれを紛らした串戯らしい。 「 ‥‥‥ 姉さん、一寸相談があるが、まづ名のれ、聞きたいな。」 をかしかつたのは、大肥りに肥つた、氣の好い、深切な女中が、ふふふ、と笑つてばかり、何うしても名告らなかつた、然もありなん、あとで聞くと、 ‥‥‥ お糸さん。 で、その、肥つたお糸さんに呑込まして、何でも構はぬ、深川で育つた土地ツ子を。ーー 若い鮮麗なのがあらはれた。 先づは、めでたい。 うけて、杯をさしながら、いよ/\黒くなつた鵜が、いやが上におやぢぶつて、 「姉さんや、うまれは、何處だい。」 聲の下に、かすりの、明石の白絣で、十七だといふのに、紅氣なし、薄い紫陽花色の半襟くつきりと涼しいのが、瞳をばつちりと、うけ口で、 「濱通り ‥‥‥ 」 「はま通り? ‥‥‥ 」 明亮簡潔に、 「蛤町。」 【完】 |