全一章・(その2) 泉鏡花作 |
銀行を横にして、片側は燒け原の正面に、野中の一軒家の如く、長方形に立つた假普請の洋館が一棟、軒へぶつつけがきの (川) の字が大きく見えた。 夜は (川) の字に並んだその屋號に電燈がきら/\とかゞやくのであらうも知れない。あからさまにはいはないが、これは私の知つた廻米問屋である。 ーー (大きく出たな。) ーー 當今三等米、一升につき約四十三錢の値を論ずるものに、廻米問屋の知己があらう筈はない。 ‥‥‥ こゝの御新姐の、人形町の娘時代を預かつた、女學校の先生を通して、ほのかに樣子を知つてゐるので ‥‥‥ 以前、私が小さな作の中に、少し家造りだけ借用した事がある。 御存じの通り、佐賀町一廓は、殆ど軒ならび問屋といつてもよかつた。構へも略同じやうだと聞くから、昔をしのぶよすがに、その時分の家のさまを少しいはう。いま此のバラツク建の洋館に對して ーー こゝに見取圖がある。 ーー 斷るまでもないが、地續きだからといつて、吉良邸のでは決してない。米價はその頃も高値だつたが、敢て夜討を掛ける繪圖面ではないのであるが、町に向つて檜の木戸、右に忍返しの塀、向つて本磨きの千本格子が奥深く靜まつて、間の植込の緑の中に石燈籠に影が青い。藏庫は河岸に揃つて、荷の揚下しは船で直ぐに取引きが濟むから、店口はしもた屋も同じ事、煙草盆にほこりも置かぬ。 ‥‥‥ その玄關が六疊の、右へ廻り縁の庭に、物數寄を見せて六疊と十疊、次が八疊、續いて八疊が川へ張出しの欄干下を、茶船は浩々と漕ぎ、傳馬船は洋々として浮ぶ。中二階の六疊を中にはさんで、梯子段が分れて二階が二間、八疊と十疊 ーー ざつとこの間取りで、なかんづくその中二階の青すだれに、紫の總のしつとりした岐阜提灯が淺葱にすくのに、湯上りの浴衣がうつる。姿は婀娜でも、お妾ではないから、團扇で小間使を指固するやうな行儀でない。 「少し風過ぎる事」 と、自分でらふそくに灯を入れる。この面影が、ぬれ色の圓髷の艶、櫛の照とともに、柳をすべつて、紫陽花の露とともに、流にしたゝらうといふ寸法であつたらしい。 ‥‥‥ 私は町のさまを見るために、この木戸を通過ぎた事がある。前庭の植込には、きり島がほんのりと咲き殘つて、折から人通りもなしに、眞日中の忍返しの下に、金魚賣が荷を下して、煙草を吹かして休んでゐた。 「それ、來ましたぜ。」 風鈴屋でも通る事か。 ーー 振返つた洋館をぐわさ/\とゆするが如く、貨物車が、然も二臺。私をかばはうとした同伴の方が水溜に踏みこんだ。 「あ、ばしやりとやツつけた。」 萬筋の裾を見て、苦りながら、 「しかし文句はいひますもののね、震災の時は、このくらゐな泥水を、かぶりついて飲みましたよ。」 特に震災の事はいふまい、と約束をしたものの、つい愚痴も出るのである。 このあたり裏道を掛けて、松村、小松、松賀町 ーー 松賀を何も、鶴賀と横なまるには及ばないが、町々の名もふさはしい、小揚連中の住居も揃ひ、それ、問屋向の番頭、手代、もうそれ不心得なのが、松村に小松を圍つて、松賀町で浄瑠璃をうならうといふ、藏と藏とは並んだり、中を白鼠黒鼠の俵を背負つてちよろ/\したのが、皆灰になつたか。御神燈の影一つ、松葉の紋も見當らないで、箱のやうな店頭に、煙草を賣るのも、よぼ/\のおばあさん。 「變りましたなあ。」 「變りましたは尤もだが ‥‥‥ この道は行留りぢやあないのかね。」 「案内者がついてゐます。御串戯ばかり。 ‥‥‥ 洲崎の土手へ突き當つたつて、一つ船を押せば上總澪で、長崎、函館へ渡り放題。どんな抜け裏でも汐が通つてゐますから、深川に行留りといふのはありませんや。」 「えらいよ!」 どろ/\とした河岸へ出た。 |