深川浅景 全一章・(その9) 泉鏡花作 |
永喜橋 ーー 町内持ちの、いましがたの小橋と、渡船場に架けた橋と、丁字形になる處に、しばらくして私たちは又たゝずんで、冬木の池の方を振返つたが、こちらからは、よくは見通せない。高瀬の蝦蟆の背に娘の飛び乘つたあたりは、蘆のない、たゞ稗蒔の盤である。
いふまでもなく、辨財天の境内から、こゝへ來るには、一町、てか/\とした床屋にまじつて、八百屋、荒物の店が賑ひ、二階造りに長唄の三味線の聞える中を通つた。が急に一面の燒野原が左に開けて、永代あたりまで打通しかと思はれた處がある。電柱とラヂオの竹が、矢來の如く、きらりと野末を仕切るのみ。 「茫漠たるものですな。」 案内者にもどこだか舊の見當がつかぬ。いづれか大工場の跡だらうで通つて來たが、何、不思議はない、嘗て滿々と鱗浪を湛へた養魚場で、業火は水を燒き、魚を煙にしたのである。原の波間を出つ入りつ。渚に飛々苫屋の状、磯家淺間な垣廂の、新しい佛壇の覗かれるものあり、古蚊帳を釣放したのに毛脛が透けば、水口を蔽ひ果てぬ管簾の下に、柄杓取る手の白さも露呈だつたが、まばら垣あれば、小窓あれば、縁が見えれば ‥‥‥ また然なければ、板切に棚を組み、葭簀を立てて、いひ合はせたやうに朝顔の蔓を這はせ、あづま菊、おしろいの花、おいらん草、薄刈萱はありのまゝに、桔梗も萩も植ゑてゐて、中には、大きな燒木杭の空虚を苔蒸す丸木船の如く、また貝殻なりに水を汲んで、水草の花白く、ちよろ/\と噴水を仕掛けて、思はず行人の足を留めるのがあつた。
御堂の裏、また鳥居前から、ずつと、恁うまで、草花に氣の揃つた處は、他に一寸見當らない。天女の袖の影が日にも月にも映つて、優しい露がしたゝるのであらう。
ーー いま、改めて遙拝した。 ーー 家毎に親しみの意を表しつゝ、更に思へば、むかしの泥龜の化異よりも、船に飛んだ娘の姿が、もう夢のやうに思はれる。 ‥‥‥ 池のかくれたのにつけても。
なんど、もの/\しく言ふほどの事はない。私は、水畔の左褄が、屋根船へ這込むのが見苦しいの、頭から潛るのが無意氣だのと ーー 落ちさへしなければ可い ーー そんな事を論ずる江戸がりでは斷じてない。が、おはぐろ蜻蛉が澪へ止つたと同じ樣に、冬木の娘の早術を輕々に見過されるのが聊かもの足りない。
漕ぎつゝある船には、岸から手を掛けるのさへ、實は一種の冒險である。
いま、兵庫岡本の谷崎潤一郎さんが、横濱から通つて、其Ruby>活動寫眞の世話をされた事がある。
場所を深川に選んだのに誘はれて、其の女優 ‥‥‥ 否、撮影を見に出掛けた。年の暮で、北風の寒い日だつた。八幡樣の門前の一寸したカフエーで落合つて ‥‥‥ いまでも覺えてゐる、谷崎さんは、かきのフライを、おかはりつき、俗にこみで誂へた。私は腹を痛めて居た。何、名物の馬鹿貝、蛤なら、鍋で退治て、相拮抗する勇氣はあつたが、西洋料理の獻立に、そんなものは見當らない。 ‥‥‥ 壜ごと熱燗で引掛けて、時間が來たから、のこり約一合半を外套の衣兜に忍ばせた。洋杖を小脇に、外套の襟をきりりと立てたのと、連立つて、門前通りを裹へ ーー 越中島を畝つて流るゝ大島川筋の蓬莱橋にかゝると、汐時を見計らつたのだから、水は七分來た。渡つた橋詰に、寫眞の一行の船が三艘、石垣についてゐる。久しぶりだつたから、私は川筋を兩方にながめて、 ーー あゝ、おもひ起す、さばけた風葉、おとなしい春葉などが、血氣さかんに、霜を浴び、こがらしを衝いて、夜ふけては蘆の小窓にもの思ふ女に、月影すごく見送られ、朝歸り遲うしては、苫で蟹を食ふ阿媽になぶられながら、川口までを幾かへり、小船で漕がしたものだつけ。彼處に、平清の裏の松が見える。 ‥‥‥ 一畝りした處が橋詰の加賀家だらう。 ‥‥‥ やがて渺々たる蘆原の土手になる。 ‥‥‥
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