深川浅景
   全一章・(その15)
    泉鏡花作

 此處寛政三年波《このところくわんせいさんねんなみ》あれの時《とき》、家《いへ》流《なが》れ人《ひと》死《し》するもの少《すくな》からず、此《こ》の後《のち》高波《たかなみ》の變《へん》はかり難《がた》く、溺死《できし》の難《なん》なしといふべからず、これによりて西入船町《にしいりふねちやう》を限《かぎ》り、東吉祥寺前《ひがしきちやうじまへ》に至《いた》るまで、凡《およ》そ長《なが》さ二百八十間餘《にひやくはちじつけんよ》の處《ところ》、家居《いへゐ》取拂《とりはら》ひ、空地《あきち》となし置《お》くものなり。

    寛政六甲寅十二月日
  ーー (小作中一度載之《せうさくちういちどこれをのす》。 ーー 再録《さいろく》。)

 繰返《くりかへ》すやうだけれども、文字《もじ》は殆《ほとん》ど認《みと》め難《がた》い。地《ち》に三尺窪《さんじやくくぼ》んだやうに碑《ひ》の半《なかば》は埋《うづ》まつた。

 ーー 因《ちなみ》にいふ、芭蕉《ばせを》に用《よう》のある人《ひと》は、六間堀《ろくけんぼり》方面《はうめん》に行《ゆ》くがよい ーー 江戸《えど》の水《みづ》の製造元《せいざうもと》、式亭《しきてい》三馬《さんば》の墓《はか》は、淨心寺中雲光院《じやうしんじちううんくわうゐん》にある。

 さて、時《とき》をいへば、やがて五時《ごじ》半《はん》であつた。夏《なつ》の日《ひ》も、この梅雨空《つゆぞら》で、雨《あめ》の小留《をや》んだ間《ま》も、蒸《む》しながら陰《いん》が籠《こも》つて、家居《いへゐ》は沈《しづ》み、辻《つじ》は黄昏《たそが》れた。

 團扇《うちは》持《も》つた六十年配《ろくじふねんぱい》が、一《ひと》つ頸窪《ぼんのくぼ》の蚊《か》を敲《たゝ》いて立去《たちさ》るあとから、同伴《つれ》は、兩切《りやうぎり》の煙草《たばこ》を買《か》ふといつて、弓《ゆみ》なりの辻《つじ》を、洲崎《すさき》の方《はう》へ小走《こばし》りする。

 ぽつねんとして、あとに、水《みづ》を離《はな》れた人間《にんげん》の棒立《ぼうだち》と、埋《うも》れた碑《ひ》と相對《あひたい》した時《とき》であつた。

 皺枯《しはが》れた聲《こゑ》をして、
 「旦那《だな》さ ー ん。」
 「あ。」
 思《おも》はず振向《ふりむ》くと、ふと背後《うしろ》に立《た》つて、暮方《くれがた》の色《いろ》に紛《まぎ》るゝものは、あゝ何處《どこ》かで見《み》た ‥‥‥ 大《おほ》びけ過《す》ぎの遣手《やりて》部屋《べや》か、否《いな》、四谷《よつや》の閻魔堂《えんまだう》か、否《いな》、前刻《さつき》の閻王《えんわう》の膝《ひざ》の蔭《かげ》か、否《いな》。今《いま》しがた白衣《びやくえ》の鮮女《せんぢよ》が、道《みち》を掃《は》いた小店《こみせ》の奥《おく》に、暗《くら》く目《め》を光《ひか》らして居《ゐ》た、鐵《かな》あみを絞《しぼ》つたやうに、皺《しわ》の數《がず》を面《おもて》に刻《きざ》んで、白髪《しらが》を逆《さかさ》に亂《みだ》しつゝ、淺葱《あさぎ》の筒袖《つゝそで》に黒《くろ》い袴《はかま》はいた媼《おうな》である。万《まん》ちやんの淺草《あさくさ》には、石《いし》の枕《まくら》の一《ひと》つ家《や》がある。安達《あだち》ケ原《あだちはら》には黒嫁《くろづか》がある。こゝのは僥倖《さいはひ》に、檳榔《びんらう》の葉《は》の樣《やう》な團扇《うちは》を皺手《しわて》に、出刃《でば》庖丁《ばうちやう》を持《も》つてをらず、腹《はら》ごもりの嬰兒《あかご》を胞衣《えな》のまゝ掴《つか》んでもゐない。讀者《どくしや》は、たゞ凄《すご》く、不氣味《ぶきみ》に、靈《れい》あり、驗《けん》あり、前世《ぜんせ》の約束《やくそく》ある古巫女《ふるいちこ》を想像《さうざう》さるればよい。なほ同一《おなじ》川筋《かはすぢ》を、扇橋《おふぎばし》から本所《ほんじよ》の場末《ばすゑ》には、天井《てんじやう》の裏《うら》、壁《かべ》の中《なか》に、今《いま》も口寄《くちよ》せの巫女《いちこ》の影《かげ》が殘《のこ》ると聞《き》く。

 「水《みづ》の音《おと》が聞《き》こえまするなう。何處《どこ》となくなう。」
 「 ‥‥‥‥‥‥ 」
 「旦那《だんな》さ ー ん、今《いま》のほどは汐見橋《しほみばし》の上《うへ》でや、水《みづ》の上《あが》るのをば、嬉《うれ》しげに見《み》てござつた。 ‥‥‥ 濁《にご》り濁《にご》つた、この、なう、溝川《どぶがは》も、堀《ほり》も、入江《いりえ》も、淨《きよ》めるには、まだ/\汐《しほ》が足《た》りませぬよ、足《た》りませぬによつて、なう、眞夜中《まよなか》に來《き》て見《み》なされまし。 ーー 月《つき》にも、星《ほし》にも、美《うつく》しい、氣高《けだか》い、お姫樣《ひめさま》が、なう、勿體《もつたい》ない、賤《しづ》の業《わざ》ぢや、今時《いまどき》の女子《をなご》の通《とほ》り、目《め》に立《た》たぬお姿《すがた》でなう、船《ふね》を浮《うか》べ、筏《いかだ》に乘《の》つて、大海《たいかい》の水《みづ》を、さら/\と、この上《うへ》、この上《うへ》に灌《そゝ》がつしやります事《こと》よ。 ‥‥‥ あゝ、有難《ありがた》うごります。おまゐりをなされまし、 ‥‥‥ おゝ、お連《つ》れがござりましたの。 ーー おさきへごゆるされや、はい、はい。」

 と、鳥居《とりゐ》も潜《くゞ》らず、片檐《かたのき》の暗《くら》い處《ところ》を、蜘蛛《くも》の巣《す》のやうに ーー 衣《き》ものの薄《うす》さに、身《み》の皺《しわ》を、次算《しだい》に、板羽目《いたはめ》へ掛《か》けて、奥深《おくぶか》く境内《けいだい》へ消《き》えて行《ゆ》く。

「やあ、お待遠樣《まちどほさま》。 ーー 次手《ついで》に囀新道《さへづりしんみち》とかいふのを、一寸《ちよつと》 ‥‥‥ 覗《のぞ》いて來《き》たが ‥‥‥ 燕《つばくろ》にしては頭《あたま》が白《しろ》い。あはははは、が、髭《おどろ》きました、露地口《ろぢぐち》に、妓生《きいさん》のやうなのが三人《さんにん》ゐましたぜ、ふはり/\と白《しろ》い服《ふく》で。」




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