深川浅景
   全一章・(その16)
    泉鏡花作

 ーー わすれたのではない。わたしたちは、じつはまだ汐見橋しほみばしに、そのしほつゝつてゐる。 ーー

 宮岡八幡宮みやおかはちまんぐう

   成田山なりたさん不動明王ふどうみようおう

 境内けいだいは、つちつてしろけるがごとく、ひとまばらにしてちりかず。神官しんくわん嚴粛げんしゆくに、僧達そうたち靜寂せいじやくに、御手洗みたらしみづすゞしかつた。

 たゞ納手拭をさめてぬぐひくろよぢれたのが、吹添ふきそかぜひるがへつて、ぽたんとほゝつた。遊廓いうくわくだんじて、いまだそゝがざるなまぐさだつたからであらう。おそれたことはいふまでもない。ほかにも、なほさん寺社てらやしろまうでたから、いたよごあかづいた奉納ほうなふ手拭てぬぐひは、その何處どこであつたかをいまわすれた。和光わくわう同塵どうぢんとはまをせども、神境しんきやう佛地ぶつちである。 ーー 近頃ちかごろ衞生上使ゑいせいじやうつかはぬことにはなつてゐるが、たんかざりとして、はなはだしくよごれた手拭てぬぐひは、一體いつたいだれあづかりるべきものであるかをうかゞひたい。はやところは、奉納ほうなふをしたものがこゝろして。 ‥‥‥ 清浄しようじようにすべきであらう。

 つゝしんで參話さんけいした。ちやう三時半さんじはんであつた。まだ晝飯おひるましてゐない。おやすみかた/\立寄たちよつたのが ‥‥‥ 門前もんぜんの、宮川みやがはか、いゝえ、木場きばの、きんいねか、いゝえ、とりの、初音はつねか、いゝえ。何處どこだい! えゝ、おほきなこゑしては空腹すきばらにこたへる、何處どこといひてるほどこともない、そのへんの、そ‥ば‥や ‥‥‥ です。あ、あ。

 「らつしやい。」
 しかし、蕎麥屋そばやはう威勢ゐせいい。横土間よこどまあつらへをくのが、前鼻緒まへはなをのゆるんだ、ぺたんこ下駄げたで、あしのうら眞黒まつくろ小婢ちびとはたてちがふ。筋骨きんこつ屈竟くつきやう壮佼わかものが、向顱卷むかうはちまき筋彫すぢぼりではあるが、うでけて、ふえ太鼓たいこ、おかめ、ひよつとこの刺青ほりもの。どむぞこ足袋たびで、トン/\と土間どまつて、 「ええお待遠まちどほう。」 ねんごろ証文ちうもんした、熱燗あつかん鷲掴わしづかみにしながら、かまちむねはすつかけ、こしおとして、下脱したにらみに、刺青ほりものうでで、ぐいとす ーー といつた調子てうしだから、古畳ふるだたみ片隅かたすみへ、すそのよぢれたのでかしこまつたきやくの、はゞかないこと一通ひととほりでない。

 「饂飩うどんあつらへてもしかられまいかね。」
 「なに、あなた。しながきが貼出はりだしてある以上いじやうは、月見つきみでも、とぢでもなんでも。」
 「成程なるほど。」

 せまみせで。 ‥‥‥ つい鼻頭はながしらかまちに、ぞろりとしたくろ絽縮緬ろちりめん羽織はおりを、くるりとしり捲込まきこむで、脹肥はちきれさうな膏切あぶらぎつたまたを、ほとん付根つけねまで露出むきだし片胡坐かたあぐら、どつしりとこしけた、三十七八さんじふしつぱち血氣けつきざかり。あそにんか、とねもはれる角刈かくがりで、そのくせパナマばう差置さしおいた。でつぶりとして、しか頬骨ほゝぼねつたのが、あたりいも半分はんぶんながして、蒸籠せいろう二枚にまいみ、たねものをひかへて、銚子てうし四本しほんならべてゐる。わたしたちの、やぶ暖簾のれんげたとき ーー その壮佼わかもの對手あひてに、聲高こわだかべんじてゐたのが、對手あひてうごいたため、つと中絶なかだえがしたので。 ‥‥‥ しばらく手酌てじやくめながら、ぎろ/\、あてのないやうに、しかしおのづからわたしたちにひとみける。わたしはその銚子てうしかずをよんで、 ‥‥‥ うらやんだのではない、ひの程度ほどはかつたのである。なるたけ帳場ちやうばせて、窓越まどごしに、しろ圓々まる/\ふとつた女房かみさんたすきがけのが、帳面ちやうめんはたらくのをちからにした。おびえたから、猪口ちよくこぼすと、同伴つれが、それは心得こゝろえたもので、ふたをり半紙はんし懷中ふところからとりつて段取だんどりなどあり。

 「やあ、 ‥‥‥ きなよ。おい、それからだ。しかしいそがしいな。」
 わたしたちのあつらへを一二度いちにどとほすと、すぐ出前でまへに ーー ボンと袢纏はんてんかたげて、あたかも、八幡祭はちまんまつり御神輿おみこし。 (こゝのはかつぐのではない、鳳凰ほうわうかゞやくばかり霄空おほぞらから、舞降まいくだところを、百人一齊ひやくにんいつときに、あがつてけるのだといふ) 御神輿おみこしけるいきほひでした。その壮佼わかもの引返ひきかへしたのを、待兼まちかねた、とまたべんじかけた。

 「へい、おかげさまで。 ‥‥‥ 」
 「蕎麥そば手打てうちで、まつたく感心かんしんはせるからな。」
 「お住居すまひ兜町かぶとちやうはうだとおつしやいますが、よく、へんあかるくつておいでなさいますね。」
 「町内ちやうない、つきあひとおなことさ、そりやおめえあまますんでるところだからよ。あはゝはゝ。」
 「えゝ、うもおたのしみで。」
 「對手あひてが、素地しらちで、うぶてるから、そこはかへつてくるしみさな。なさけ苦勞くらうもとめるんだ。酒落しやれたところはいくらもあるのに ーーー だが、手打てうちだから、つゆ加減かげんがたまらねえや。」



表紙
全一章・(その1) (その2) (その3) (その4) (その5 ) (その6) (その7)
(その8) (その9) (その10) (その11) (その12) (その13) (その14)
(その15) (その十6) (その17) (その十8)