全一章・(その3) 泉鏡花作 |
「仙臺堀だ。」 「だから、それだから、行留りかなぞと外聞の惡い事をいふんです。 ーー そも/\、大川からこゝへ流れ口が、下之橋で、こゝが即ち油堀‥」 「あゝ、然うか。」 「間に中之橋があつて、一つ上に、上之橋を流れるのが仙臺掘川ぢやあありませんか。 ‥‥‥ 斷つて置きますが、その川筋に松永橋、相生橋、海邊橋と段々に架つてゐます。 ‥‥‥ あゝ、家らしい家が皆取拂はれましたから、見通しに仙臺堀も見えさうです。すぐ向うに、煙だか、雲だか、灰汁のやうな空にたゞ一ケ處、樹がこんもりと、青々して見えませう ーー 岩崎公園。大川の方へその出つ端に、お湯屋の煙突が見えませう、何ういたして、あれが、霧もやの深い夜は、人をおびえさせたセメント會杜の大煙突だから驚きますな。中洲と、箱崎を向うに見て、隅田川も漫々渺々たる處だから、あなた驚いてはいけません。」 「驚きません。わかつたよ。」 「いや念のために ーー はゝゝ。も一つ上が萬年橋、即ち小名木川、千筋萬筋の鰻が勢揃をしたやうに流れてゐます。あの利根川圖志の中に、 ‥‥‥ えゝと ーー 安政二年乙卯十月、江戸 には地震の騒ぎありて心靜かならず、訪來る人も稀なれば、なか/\に暇ある心地して云々と ‥‥‥ 吾が本所の崩れたる家を後に見て、深川高橋の東、海邊大工町なるサイカチといふ處より小名木川に船うけて ‥‥‥ 」 「また、地震かい。」 「あゝ、默り默り。 ーー あの高橋を出る汽船は大變な混雜ですとさ。 ーー この四五年浦安の釣がさかつて、沙魚がわいた、鰈が入つたと、乘出すのが、押合、へし合。朝の一番なんぞは、汽船の屋根まで、眞黒に人で埋まつて、川筋を次第に下ると、下の大宮橋、新高橋には、欄干外から、足を宙に、水の上へぶら下つて待つてゐて、それ、尋常ぢや乘切れないもんですから、そのまんま ‥‥‥ そツとでせうと思ひますがね、 ーー それとも下敷は漬れても構はない、どかりとだか何うですか、汽船の屋根へ、頭をまたいで、肩を踏んで落ちて來ますツて。 ‥‥‥ こ奴が踏みはづして川へはまると、 (浦安へ行かう、浦安へ行かう) と鳴きます。」 「串戯ぢやあない。」 「お船藏がつい近くつて、安宅丸の古跡ですからな。いや、然ういへば、遠目鏡を持つた氣で ‥‥‥ あれ、ご覽じろ ーー と、河童の兒が同向院の墓原で惡戯をしてゐます。」 「これ、芥川さんに聞こえるよ。」 私は眞面目にたしなめた。 「口ぢやあ兩國まで飛んだやうだが、向うへ何うして渡るのさ、橋といふものがないぢやあないか。」 「ありません。」 と、きつぱりとしたもので、蝙蝠傘で、踞込んで、 「確にこゝにあつたんですが、町内持の分だから、まだ、架からないでゐるんでせうな。尤もかうどろ/\に埋まつては、油堀とはいへませんや、鬢付堀も、黒髪つけです。」 「塗りたくはありませんかな。」 「私はもう歸ります。」 と、麥稈をぬいで風を入れた、頭の禿を憤る。 「いま見棄てられて成るものか、待ちたまへ、あやまるよ。しかしね、仙臺堀にしろ、こゝにしろ、殘らず、川といふ名がついてゐるのに、何しろひどくなつたね。大分以前には以前たが ‥‥‥ やつばり今頃の時候に此の川筋をぶらついた事がある。八幡樣の裏の渡し場へ出ようと思つて、見當を取違へて、あちらこちら抜け裏を通るうちに、ざんざ降りに降つて來た、ところがね、格子さきへ立つて、雨宿りをして、出窓から、紫ぎれのてんじんに聲をかけられようといふ柄ぢやあなし ‥‥‥ 」 「勿綸。」 「たゝつたな ーー 裏川岸の土藏の腰にくつ付いて、しよんぼりと立つたつけ。晩方ぢやああつたが、あたりがもう/\として、向う岸も、ぼつと暗い。折から一杯の上汐さ。 ‥‥‥ 近い處に、柳の枝はじやぶ/\と浸つてゐながら、渡し船は影もない。何も、油堀だつて、そこにづらりと並んだ藏が ーー 中には破壁に草の生えたのも交つて ーー 油藏とも限るまいが、妙に油壺、油瓶でも積であるやうで、一倍陰氣で、 ‥‥‥ 穴から燈心が出さうな氣がする。手長蝦だか、足長蟲だか、びちや/\と川面ではねたと思ふと、岸へすれ/\の濁つた中から、尖つた、黒い面をヌイと出した ‥‥‥ 」 小さな聲で、 「河、河、河童ですか。」 |