全一章・(その4) 泉鏡花作 |
「はげてる癖に、いやに臆病だね ーー 何、泥龜だつたがね、のさ/\と岸へ上つて來ると、雨と一所に、どつと足もとが川になつたから、泳ぐ形で獨りでにげたつけ。夢のやうだ。このびんつけに日が當つちやあ船蟲もはへまいよ。 ーー おんなじ川に行當つても大した違ひだ。」 「眞個ですな、いまお話のその邊らしい。 ‥‥‥ 私の友だちは泥龜のお化どころか、紺蛇目傘をさした女郎の幽靈に逢ひました。 ‥‥‥ おなじく雨の夜で、水だか路だか分らなく成りましてね。手をひかれたさうですが、よく川へ陷らないで、橋へ出て助かりましたよ。」 「それが、自分だといふのだらう。 ‥‥‥ 幽靈でもいゝ、橋へ連出してくれないか。」 「 ーー 娑婆へ引返す事にいたしませうかね。」 もう一度、念入りに川端へ突き當つて、やがて出たのが黒龜橋。 ーー こゝは阪地で自慢する ( ‥‥‥ 四ツ橋を四つわたりけり) の趣があるのであるが、講釋と芝居で、いづれも御存じの閻魔堂橋から、娑婆へ引返すのが三途に迷つた事になつて ーー 面白い ‥‥‥ いや、面白くない。 が、無事であつた。 ーー 私たちは、蝙蝠傘を、階段に預けて、 ーー 如何に梅雨時とはいへ ‥‥‥ 本來は小舟でぬれても、雨のなゝめな繪に成るべき土地柄に對して、かう番ごと繻子張を持出したのでは、をかしく蝙蝠傘の術でも使ひさうで眞に氣になる、以下この小道具を節略する。 ーー 時に扇子使ひの手を留めて、默拝した、常光院の閻王は、震災後、本山長谷寺からの入座だと承はつた。忿怒の面相、しかし威あつて猛からず、大閻魔と申すより、口をくわつと、唐辛子の利いた關羽に肖てゐる。從つて古色蒼然たる脇立の青鬼赤鬼も、蛇矛、長槍、張飛、趙雲の概のない事はない。いつか四谷の堂の扉をのぞいて、眞暗な中に閻王の眼の輝くとともに、本所の足洗屋敷を思はせる、天井から奪衣の大婆の組違へた脚と、眞俯向けに睨んだ逆白髪に恐怖をなした、陰惨たる修羅の孤屋に比べると、こゝは却つて、唐土桃園の風が吹く。まして、大王の膝がくれに、婆は遣手の木乃伊の如くひそんで、あまつさへ脇立の座の正面に、赫耀として觀世音立たせ給ふ。小兒衆も、娘たちも、心やすく賽してよからう。但し浮氣だつたり、おいたをすると、それは/\本當に可恐いのである。 小父さんたちは、おとなしいし、第一、品行が方正だから ‥‥‥ 言つた如く無事であつた。 ‥‥‥ はいゝとして、隣地心行寺の假門にかゝると、電車の行違ふすきを、同伴が、をかしなことをいふ。 「えゝ、一寸懺悔を。 ‥‥‥ 」 「何だい、いま時分。」 「ですが、閻魔樣の前では、氣が怯けたものですから。 ーー 實は此寺の墓地に、洲崎の女郎が埋まつてるんです。へ、へ、へ。長い突通しの笄で、薄化粧だつた時分の、えゝ、何にもかにも、未の刻の傾きて、 ーー 元服をしたんですがね ーー 富川町うまれの深川ツ娘だからでもありますまいが、年のあるうちから、流れ出して、遂に泡沫の儚さです。人づてに聞いたばかりですけれども、野に、山に、雨となり、露となり、雪や、氷で、もとの水へ返つた果は、妓夫上りと世帶を持つて、土手で、おでん屋をしてゐたのが、氣が變になつてなくなつたといひます ーー 上州安中で旅藝者をしてゐた時、親知らずでもらつた女の子が方便ぢやありませんか、もう妙齡で ‥‥‥ 抱へぢやあありましたが、仲で藝者をしてゐて、何うにかそれが見送つたんです。 ‥‥‥ 心行寺と確いひましたつけ。おまゐりをして下さいなと、何かの時に、不思議にめぐり合つて、その養女からいはれたんですが、ついそれなりに不沙汰でゐますうちに、あの震災で ‥‥‥ 養女の方も、まるきし行衞が分りません。いづれ迷つてゐると思ひますとね、閻魔堂で、羽目の影がちらり/\と青鬼赤鬼のまはりへうつるのが、何ですか、ひよろ/\と白い女が。 ‥‥‥ 」 いやな事をいふ。 |