全一章・(その10) 泉鏡花作 |
船で手を擧げたのに心著いた。 ーー 谷崎さんはもう乘つてゐた。なぞへに下りて石垣へ立つと、私の丈ぐらゐな下に、船の小べりが横づけになつて、中流の方に二艘、谷崎さんはその眞中に寒風に吹かれながら颯爽として立つてゐた。申し譯をするのではない、私は敢て友だちを差置いて女優の乘つたのを選びはしないが、判官飛なぞ思ひも寄らぬ事、その近いのに乘らうとすると、些と足がとゞき兼ねる。 ‥‥‥ 「おつかまんなせえ。」 赤ら顔の船頭が逞ましい肩をむずと突出してくれたから、ほども樣子も心得ずに、いきなり抱着いた。が船が搖れたから、肩を、辷つた手が、頸筋を抱いて、もろに、どさりと乘しかゝつた。何と何うも、柱へ枕を打ちつけて、男同士噛りついた形だから、私だつて馴れない事だし、先方も驚いた、その上に不意の重量で船頭どのが胴の間へどんと尻餅をついて一汐浴びて 「此の野郎!」 尤もだ、此の野郎は更めていふに及ばず、大島川へざんぶ、といふと運命にかゝはる、土手をひた/\となめる淺瀬の泥へ、二人でばしやりと寢た。 「それから思ふと ‥‥‥ いまの娘さんの飛乘は、人間業ぢやあないんだよ。」 「些と大袈裟ですなあ、何、あれ式の事を。 ‥‥‥ これから先、その蓬莱町、平野町の河岸へ行つて、船の棟割といつた處をご覽なさい。阿媽が小舷から蟹ぢやあありませんが、釜を出して、斜かひに米を磨いでるわきを、あの位な娘が、袖なしの肌襦袢から、むつちりとした乳をのぞかせて、 ‥‥‥ それでも女氣でござんせうな、紅入模樣のめりんすを長めに腰へ卷いたなりで、その泥船、埃船を棹で突ツ張つてゐますから。 ーー 氣の毒な事は、汗ぐつしよりですがね、勞働で肌がしまつて、手足のすらりとしてゐる處は、女郎花に一雨かゝつた形ですよ。」 「雨は、お誂にしと/\と降つてゐるし、眞個にそれが、凡夫の目に見えるのかね。」 「ご串談ばかり、凡夫だから見えるんでさあね。 ーー いえまだ、もつと凡夫なのは、近頃島が湧いた樣に開けました、疝氣稲荷樣近くの或工場へ用があつて、私の知り合が三人連れ圓タクで乘込んたのが、歸りがけに、洲崎橋の正面見當へ打突ると、 ‥‥‥ 凡夫ですな。また、あなた、四時だといふのに、一寸見物だけで、道普請や、小屋掛でごつた返して、こんがらかつてゐる中を、ブン/\獨樂のやうにぐる/\廻りで、その癖込む ‥‥‥ 疾いんです。引手茶屋か、見番か、左は? ‥‥‥ 右は、といふうちに、 ーー 豫め御案内申しましたつけ、仲の町正面の波除へ突き當つたと思召せ。 ーー 忽ち蒼海漫々たり。あれが房州鋸山だ、と指さすのが、府下品川だつたり何かして、地理には全く暗い連中ですが、蒸風呂から飛上つた同然に、それは涼しいには涼しいんですとさ。 ‥‥‥ 偏に風を賞めるばかり、凡夫ですな。卷煙草をふかす外に所在がないから、やゝあつて下に待たした圓タクへ下りて來ると、素裸の女郎が三人 ーー この友だち意地が惡くつて、西だか東だか方角は教へませんがね、虚空へ魔が現れた樣に、簾を拂つた裏二階の窓際へ立並ぶと、腕も肩も、胸も腹も、くな/\と緋の切を卷いた、乳房の眉間尺といつた形で揉み合つて、まだそれだけなら、何、女郎だつて涼みます、不思議はありませんがね。招いたり、頬邊をたゝいて見せたり、肱でまいたり、これがまさしく、府下と房州を見違へた凡夫の目にもあり/\と見えたんですつて。再び説く、天の一方に當つて、遙にですな。惜しいかな、方角が分りません。」 「宙に迷つてる形だね、きみが手をひかれた幽靈なぞも、或はその連中ではないのかね。」 |