深川浅景
   全一章・(その14)
    泉鏡花作

が、いづれも、すゞむためにどまるのではない。およ汐時しほどき見計みはからつて、はしちかづく船乘ふなのり筏師いかだしに、目許めもとであひづをかよはせる。成程なるほど汐見橋しほみばし所以ゆゑんだ、と案内者あんないしやふのである。眞偽しんぎ保證ほしようするかぎりでない。

 たゞ、淙々そう/\として大汐おほしほのぼ景色けしきは、わたし ‥‥‥ 一個人いつこじんとしては、船頭せんどうの、したから蹴出けだしあふごとではなかつた。

 じゆんちがふが、 ーー こゝで一寸ちよつとはなしたい。 ーー これは、のちに、洲崎すさき辨財天べんざいてん鳥居前とりゐまへの、寛政くわんせい津浪之碑つなみのひまへでのことである。 ーー 打寄うちよするなみいて、いまはう。

 汐見橋しほみばしから、うみむかつた ーー 大島川おほしまがは入江いりえかど、もはや平久町何丁へいきうちやうなんちやうめにつた ーー 出洲でずはなおな津浪つなみつてた。 ーー 前談ぜんだん谷崎たにざきさんと活動寫眞くわつどうしやしん一行いつかうが、ふねて、きし震災前しんさいぜんには、蘆洲あしずなかに、孤影こえい蛍然けいぜんとして、百年ひやくねん一人ひとりかげごとく、あの、すごく、さびしく、あはれだつたが、あたかも、のつぽの石臼いしうすごとつて、すぐそばには、物干棹ものほしざを洗濯せんたくものがかゝつて、ざうづるのではないが、わたしたちのいしめぐるのを、片側かたがは長屋ながや小窓こまどから、場所ばしよらしい、きやんだの、酒落しやれた女房かみさんが、そで引合ひきあつてのぞいたものであつた。 ーー いまはおなところ、おなじ河岸かしに、ポキリとさいつのれたごとく、ふちにもらぬあとのこして、むくろかげもない。

 けたみづを、目前まのあたりなみ鱗形うろこがたんだ、煉瓦れんぐわにして、卒堵婆そとば一基いつき。 ーー 神力しんりき大光たいこう普照無ふせう際土さと消險せうけん三垢さんく冥廣濟衆厄難みやうかうさいしうやくなん。 ーー しか/\としるしたのが、みづなゝめつてる。

 もつとも、案内者あんないしやといへども、汐見橋しほみばしからみづうへんだのではない。一度いちど富岡とみをか門前もんぜんへ。 ‥‥‥ それから仲通なかどほり越中島ゑつちうじまへ、蓬莱橋ほうらいばしわたること ーー 谷崎たにざきさんのときほとん同一おなじに、かつかはちたきやくが、津浪之碑つなみのひたづねたので、古石場ふるいしば牡丹町ぼたんちやうかはづたひに、途中とちゆうだんいつつをかぞへる、ひとのほかくるまつうじない牡丹橋ぼたんばしたかわたつた。 ーー 大廻おほまはりをしないと、汐見橋しほみばしからるやうでも、のあとへはいたないのである。のあたり、ふね長屋ながやみづいへ肌襦袢はだじゆばんちゝのむつちりしたのなどは、品格ひんかくある讀者どくしやのおきなさりたくないことしんじて、さきいそぐ。 ーー したがつて古石場ふるいしば石瓦いしがはら石炭屑せきたんくづなどはろんじない。たゞひと牡丹町ぼたんちやう御町内ごちやうない、もしあらば庄屋なぬしさま建言けんげんしたいことがある。場所ばしよのいづれをはず、一株ひとかぶ牡丹ぼたんを、にはなりはちなりにゑてほしい。こうはく濃艶のうえん淡彩たんさいたゞ一輪いちりん花開はなひらいて、うてな金色こんじき町名ちやうめいきざむとせよ、全町立處ぜんちやうたちどころ樂園らくゑんくわして、いまはえぬ、團子坂だんござか入谷いりやの、きく朝顔あさがほ萩寺はぎでらはぎ、をしのいで、大東京だいとうきよう名所めいしよらう。およそ、そのまちあらはるゝは、ひととみでない。ダイヤモンドの指環ゆびわでない、ときに、一本ひともとはなである。

 やがて、のあとに、供養くやう塔婆たふばを、爲出しいだこともなくとむらつた。

 しづんだか、けたか、行方ゆくへたづねようとおもふにさへ、片側かたがはのバラツクに、數多かずおほあつまつたのは、最早もはや、女房かみさんにもむすめにも、深川ふかがはひとどころでない。百里ひやくり帶水たいすゐ對馬つしまへだてた隣國りんごくから入稼いりかせぎのおきやくである。煙草たばこつて、ラムネ、サイダーをしやくするらしい、おなじ鮮女せんぢよきぬしろきが二人ふたりほうき使つかひ、道路だうろみづつをた ‥‥‥ たふきよむるは、そう善行ぜんぎやうである。まちくのは、つちあいするのである。殊勝しゆしようのおんこと、おんことと、こゝろばかり默禮もくれいしつゝわたしたちは、むかし蘆間あしまわたせし船板ふねいた ーー てつ平久橋へいきうばしわたる。


 「震災しんさいときではありませぬで、ついこのあひだ大風おほかぜれましてな。」 

 同伴つれよ、ゆるせ、あかがほで、はげたのが ーー あしなみの、つゝみなら蘆簀よしず茶屋ちややから、白雪しらゆき富士ふじえる、こゝのむかしゑがいたくばりものらしい ーー 團扇うちは使つかひながら、洲崎すさき辨財天べんざいてん鳥居とりゐそとに、いしさくゆるくめぐらした、まへつたとき、ぶらりと來合きあはせて、六十年配ろくじゆうねんぱいういつた。



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