全一章・(その8) 泉鏡花作 |
潮時と思はれる。池の水はやゝ増したやうだが、まだ材木を波立たせるほどではない。場所によると、町が野になつた處もあるのに、覺えて一面に蘆が茂つた池の縁は、右手にその蘆の丈ばかりの小家が十うばかり數を並べて、蘆で組んだ簾も疎に、揃つて野草も生えぬ露出の背戸である。しかし、どの家も、どの家も、裏手、水口、勝手元、皆草花のたしなみがある、好みの盆栽も置き交ぜて。 ‥‥‥ 失禮ながら、缺摺鉢の松葉牡丹、蜜柑箱のコスモスもありさうだが、やがて夏も半ば、秋をかけて、手桶、盥、俎、柄杓の柄にも朝顔の蔓など掛けて、家々の後姿は、花野の帶を白露に織るであらう。 色なき家にも、草花の姿は、ひとつ/\女である。軒ごとに、妍き娘がありさうで、皆優しい。 横のこの家ならびを正面に、鍵の手になつた、工場らしい一棟がある。 ーー その細い切れめに、小さな木の橋を渡したやうに見て取つたのは、折から小雨して、四邊に靄の掛つたためで、同伴の注意を待つまでもない。ずつと見通しの、油堀から入堀の水に、横に渡した小橋で、それと丁字形に、眞向うへ、雨を柳の絲状に受けて、縦に弓形に反つたのは、即ち、もとの渡船場に替へた、八幡宮、不動堂へ參る橋であつた。 「あなたが、泥龜に遁げたのは ーー 然うすると、あの邊ですね。」 「さあ、あの渡船場に迷つたのだから、よくは分らないが、彼の邊だらうね。何しろ、もつと家藏が立込んで居たんだよ。」 「從つても變ですが、 ‥‥‥ 友だちが、女郎の幽靈に手を曳かれたのは、工場の向裏あたりに成るかも知れません。 ーー 然う言へば、いま見た、 ‥‥‥ 特選、稀も、ふつと消えたやうで、何んだか怪しうどざいますよ。」 「御堂前で、何をいふんだ。」 「こりや何うも ‥‥‥ 景色に見惚れて、また鳥居際に立つてゐました。 ーー あゝ八幡樣の大銀杏が、遠見の橋のむかうに、對に青々として手に取るやうです。涼しさうにしと/\と濡れてゐます。 ‥‥‥ 震災に燒けたんですが、神田の明神樣のでも、何所のでも、銀杏は偉うございますな。しかし苦勞をしましたね、彼所へ行つたら、敬意を表して挨拶をしませうよ。石碑がないと、くツつけて夫婦にして見たいんですが、あの眞中の横綱が邪魔ですな。」 「馬鹿な事を ーー 相撲贔負が聞くと撲るからおよし。おや、馬が通る。 ‥‥‥ 」 橋の上を、ぬほりとして大きな馬が、大八車を曳きながら。 ーー 遠くで且音がしないから、橋を行くのが一本の角木に乘つて、宛如、空を乘るやうである。 ハツと思ふほど、馬の腹とすれ/\に、鞍から,辷つた娘が一人。 ‥‥‥ 白地の浴衣に、友禪の帶で、島田らしいのが、傘もさゝず、ひらりと顯はれると、馬は隱れた、 ーー 何、池のへりの何の家か、その裏口から出たのが、丁度、遠くで馬が橋を踏むトタンに、その姿を重ねたのである。 雨を面白さうに、中の暗い工場の裏手の廂下を、池について、白地をひら/\と蝶の袖で傳つて行く。 ‥‥‥ その風情に和らげられて、工場の隅に、眞赤に燃ゆる火が、凌霄花の影を水に投げた。 娘がうしろ向きになつて、やがて、工場について曲る岸から ーー その奥にも堀が續いた ーー 高瀬船の古いのが、斜に正面を切つて、舳を蝦蟆の如く、ゆら/\と漕ぎ來り、半ば池の隅へ顯はれると、後姿のまゝで、ポンと飛んで、娘は蓮葉に、輕く船の上へ。 そして、艪を押す船頭を見て振向いた。父さんに甘えたか、小父さんを迎へたか、兄哥にからかつたか、それは知らない。振向いて、うつくしく水の上で莞爾した唇は、雲に薄暗い池の中に、常夏が一輪咲いたのである。 |