深川浅景
   全一章・(その7)
    泉鏡花作

 時《とき》しも、一通《ひととほ》り、大粒《おほつぶ》なのが降《ふ》つて來《き》た。蘆《あし》を打《う》つて、ぱら/\と音立《おとた》てて。

 「ありがたい、かきつばたも、あやめもこゝには咲《さ》きます。何《なに》、根《ね》も葉《は》もなくつても一輪《いちりん》ぐらゐきつと咲《さ》きます。案内者《あんないしや》みやうがに、私《わたし》が咲《さ》かせないでは置《お》きません。露草《つゆくさ》の青《あを》いのも露《つゆ》つぽくこゝに咲《さ》きます。嫁菜《よめな》の秋日和《あきびより》も見《み》られますよ。 ーー それに、何《なん》ですね ‥‥‥ 意氣《いき》だか、結構《けつこう》だか、何《なに》しろ別荘《べつさう》、寮《れう》のあとで、これは庭《には》の池《いけ》らしうございますね。あの、蘆《あし》の根《ね》の處《ところ》に、古笠《ふるがさ》のつぶれたやうな青苔《あをごけ》の生《は》えた ‥‥‥ あれは石燈籠《いしどうろう》なんですよ。」

 よく見《み》ると、莱屑《なくづ》も亂《みだ》れた。成程《なるほど》燈籠《とうろう》の笠《かさ》らしいのが、忽《たちま》ち、三《みつ》ツ四《よつ》ツに裂《さ》けて蝦蟇《がま》に成《な》つたか、と動《うご》き出《だ》したのは、蘆《あし》を分《わ》けて、ばさ/\と、二三羽《はさんば》、鷄《にはとり》の潜《もぐ》りながら啄《ついば》むのである。鮒《ふな》や、泥鰌《どぢやう》の生殘《いきのこ》つたのではない、蚯蚓《みゝず》 ‥‥‥ と思《おも》ふにも、何《なん》となく棄《す》て難《がた》い風情《ふぜい》であつた。

 しばらく視《なが》めたが、牡鷄《をんどり》がバツと翼《つばさ》を拂《はた》いて、雨脚《あまあし》がやゝ繁《しげ》く成《な》つたから、歩行《ある》き出《だ》すと、蘆《あし》の根《ね》を次第《しだい》高《だか》に、葉《は》がくれに、平屋《ひらや》のすぐ小座敷《こざしき》らしい丸窓《まるまど》がある。路《みち》が畝《うね》つて、すぐの其《その》縁外《えんそと》をちか/\と通《とほ》ると、青簾《あをすだれ》が二枚《にまい》 ‥‥‥ 捲《ま》いたのではなかつた、軒《のき》から半垂《なかばた》れた其《そ》の細《ほそ》いぬれ縁《えん》に、なよ/\として、きりゝとしまつた浴衣《ゆかた》のすそが見《み》えた。白地《しろぢ》に、藍《あゐ》の琴柱霞《ことぢがすみ》がちら/\とする間《ま》もなく、不意《ふい》に衝《つ》と出《で》た私《わたし》たちから隱《かく》れるやぅに、朱鷺《とき》の伊達卷《だてまき》ですつと立《た》つ時《とき》、はらりと捌《さば》いた褄淺《つまあさ》く、柘榴《ざくろ》の花《はな》か、と思《おも》ふのが散《ち》つて、素足《すあし》が夕顔《ゆふがほ》のやうに消《き》えた。同時《どうじ》に、黒《くろ》い淡《うす》い影《かげ》が、すだれ越《ごし》にさつと映《さ》した、黒髪《くろかみ》が長《なが》く流《なが》れたのである。

 洗髪《あらひがみ》を干《かわ》かしてなどゐたらしい。 ‥‥‥
 そのすだれを漏《も》れたのは、縁《えん》に坐《すわ》つたのか、腰《こし》を掛《か》けたのか、心《こゝろ》づく暇《ひま》もなかつた。

 「 ‥‥‥ ざくろの花《はな》、そ、そんな。あの、ちら/\と褄《つま》に紅《あか》かつたのは螢《ほたる》の首《くび》です。又《また》ぽつと青《あを》く光《ひか》るやうに肌《はだ》に透《す》き通《とほ》つたではありませんか。 ‥‥‥ 蛍《ほたる》を染《そ》めた友染《ゆうぜん》ですよ。もうあのくらゐ色《いろ》が白《しろ》いと、影《かげ》ばかり、螢《ほたる》の羽《はね》の黒《くろ》いのなんざ、目《め》が眩《くら》んで見《み》えやしません。すごい、何《ど》うもすごい。 ‥‥‥ 特選《とくせん》、精選《せいせん》、別改《べつかい》、改良《かいりやう》、稀《まれなり》 ーー です。木場中《きばぢう》を背負《しよ》つて立《た》て。極選《ごくせん》、極樂《ごくらく》、有難《ありがた》い。いや魔界《まかい》です、すごい。」

 といふ、案内者《あんないしや》の横面《よこつら》へ、出崎《でさき》の巌《いは》をきざんだやうな、徑《みち》へ出張《でば》つた石段《いしだん》から、馬《うま》の顔《かほ》がヌツと出《で》た、大《おほ》きな洋犬《かめ》だ。長啄能縮《ちやうたくよくれふす》 ーー 。パン/\と厚皮《あつかは》な鼻《はな》が、鼻《はな》へぶつかつたから、
 「ワッ。」
 といつた。 ーー 石垣《いしがき》から蟒《うはばみ》が出《で》たと思《おも》つたさうである。

 犬嫌《いぬきら》ひな事《こと》に掛《か》けては、殆《ほとん》ど病的《びやうてき》で、一《ひと》つはそれがために連立《つれだ》つてもらつた、浪人《らうにん》の剣客《けんかく》がその狼狽《うろた》へかただから、膽《きも》を冷《ひ》やしてにげた。

 またゐた ーー 再《ふたゝ》び吃驚《ぴつくり》したのは三角《さんかく》をさかさな顔《かほ》が、正面《しやうめん》に蟠踞《はんきよ》したのである。こま狗《いぬ》の燒《や》けたのらしい。が、角《つの》の折《を》れた牛《うし》、鼻《はな》の碎《くだ》けた猪《ゐのしゝ》、はたスフンンクスの如《ごと》き異形《いぎやう》な石《いし》が、他《た》に累々《るゐ/\》としてうづたかい。

 早《はや》く本堂《ほんだう》わきの裏門《うらもん》で、つくろつた石《いし》の段々《だん/\》の上《うへ》の白《しろ》い丘《をか》は、堀《ほり》を三方《さんぱう》に取廻《とりまは》した冬木《ふゆき》の辨財天《べんざいてん》の境内《けいだい》であつた。


 「お顔《かほ》を、ご覽《らん》に成《な》りますか。」
 「いや何《ど》ういたして。 ‥‥‥ 」
 「こゝで拝《はい》をして參《まゐ》ります。」
 と、同伴《つれ》もいつた。

 手《て》はよく淨《きよ》めたけれども、刎《はね》を上《あ》げて、よぢれた裾《すそ》は、これしかしながら天女《てんによ》に面《めん》すべき風體《ふうてい》ではない。それに、蝋燭《おらふ》を取次《とりつ》いだのが、堂《だう》を守《も》る人《ひと》だと、ほかに言《ことば》があつたらう。居合《ゐあ》はせたのは、近所《きんじよ》から一寸《ちよつと》留守番《るすばん》に頼《たの》まれたといつた前垂《まへだ》れ掛《がけ》の年配者《ねんぱいしや》で、 「お顔《かほ》を。」 ーー これには遠慮《ゑんりよ》すべきが當然《たうぜん》の事《こと》と今《いま》も思《おも》ふ。況《ま》して、バラツクの假住居《かりずまひ》の縁《えん》に、端近《はしぢか》だつた婦人《ふじん》さへ、山《やま》の手《て》から蘆《あし》を分《わ》けた不意《ふい》の侵入者《しんにゆうしや》に、顔《かほ》を見《み》せなかつた即時《そくじ》であつた。



■表紙
■全一章・(その1) ■(その2) ■(その3) ■(その4) ■(その5 ) ■(その6) ■(その7)
■(その8) ■(その9) ■(その10) ■(その11) ■(その12) ■(その13) ■(その14)
■(その15) ■(その十6) ■(その17) ■(その十8)