深川浅景
   全一章・(その17)
    泉鏡花作

 天麩羅《てんぷら》を、ちゆうと吸《す》つて、
 「何《なに》しろ、お前《めえ》、俺《おれ》が顔《かほ》を見《み》せると、白《しろ》い頸首《えりくび》が、島田《しまだ》のおくれ毛《げ》で、うつむくと、もう忽《たちま》ち耳朶《みゝたぶ》までポツとならうツて女《あま》が、お人形《にんぎやう》さんに着《き》せるのだ、といつて、小《ちひ》さな紋着《もんつき》を縫《ぬ》つてゐるんだからよ。ふびんが加《くは》はらうぢやねえか、えへツヘツ。人形《にんぎやう》のきものだとよ。てめえが好《い》い玩弄《おもちや》の癖《くせ》にしやあがつて。」

 「また、旦那《だんな》、滅法界《めつぽうけえ》な掘出《ほりだ》しものをなすつたもんだね。一町《ひとまち》越《こ》せば、蛤《はまぐり》も、蜆《しゞみ》も、山《やま》と積《つ》んぢやあありますが、問屋《とんや》にも、おろし屋《や》にも。 ‥‥‥ おまけに素人《しろうと》に、そんな光《ひか》つたのは見《み》た事《こと》もありやしません。」

 「光《ひか》るつたつて硝子《ビイドロ》ぢやあねえぜ。 ‥‥‥ 底《そこ》に艶《つや》があつて、ほんのり霞《かす》んでゐる珠《たま》だよ。こいつを、掌《てのひら》でうつむけたり、仰向《あふむ》けたり、一《ピソ》といへば一《ビン》が出《で》る、五《ぐ》といへば五《ぐ》が出《で》る。龍宮《りうぐう》から授《さづ》かつた賽《さい》ころのやうな珠《たま》だから、えへツえへツヘツ。」

 「あ、旦那《だんな》、猪口《ちよく》から。」

 「色香《いろか》滴《こぼ》るゝ如《ごと》し ‥‥‥ 分《わか》つてる。縁起《えんぎ》がなくつちやあ眞個《ほんたう》にはしめえな。何《ど》うだ? 此《これ》をみつけたのが、女衒《ぜげん》でも、取揚婆《とりあげばゞあ》でもねえ。盲目《めくら》だ。 ーー 盲目《めくら》なんだから、深川《ふかがは》七不思議《なゝふしぎ》の中《うち》だらうぜ。こゝらも流《なが》す事《こと》があるだらう。仲町《なかちやう》や、洲崎《すさき》ぢや評判《ひやうばん》の、松賀町《まつがちやう》うらに住《す》む大坊主《おほばうず》よ。俺《おれ》が酒落《しやれ》に鶴賀《つるが》をかじつて、坊主《ばうず》、出來《でき》るから、時々《とき/\》慰《なぐさ》みに稽古《けいこ》に行《ゆ》くと思《おも》ひねえ。

 (親《おや》一人《ひとり》子《こ》一人《ひとり》で、旦那《だんな》、大勢《おほぜい》に手足《てあし》は裂《さ》きたくない、と申《まを》しまするで、お情《なさけ》を遣《つか》はされ。) ーー かねて、熊井《くまゐ》、平久《へいきう》、平野《ひらの》、新道《しんみち》と、俺《おれ》が百人斬《ひやくにんぎり》を知《し》つてるから、 (特別《とくべつ》のお情《じよう》を。) ーー よし來《き》た、早《はや》い處《ところ》を。で、どうせ、あく洗《あら》ひをするか、湯《ゆ》がかないぢや使《つか》へない代《しろ》ものだと思《おも》つたのが、 ‥‥‥ まるでもつて、其處等《そこら》の辨天《べんてん》 ‥‥‥ 」

 「あゝ、不可《いけね》え、旦那《だんな》、私《あつし》がこんな柄《がら》でいつちや、をかしいやうですがね、うつかり風説《うはさ》はいけません。時々《とき/\》貴女《あなた》のお姿《すがた》が人目《ひとめ》に見《み》えて、然《しか》もお前《めえ》さん。 ‥‥‥ 髪《かみ》をお洗《あら》ひなさる事《こと》さへあるツて言《い》ひますから。 ‥‥‥ や、話《はなし》をしても、裸體《はだか》の脇《わき》の下《した》が擽《くすぐ》つてえ。」

 「それだよ/\、その通《とほ》り、却《かへ》つて結構《けつこう》ぢやねえか。本所《ほんじよ》の一《ひと》ツ目《め》を見《み》ねえな ‥‥‥ 盲目《めくら》が見《み》つけたのからして、もうすぐに辨天《べんてん》だ。俺《おれ》の方《はう》でいはうと思《おも》つた。 ーー いつか、連《つれ》をごまかす都合《つがふ》でな、隙漬《ひまつぶ》しに開帳《かいちやう》さして、其處等《そこら》の辨天《べんてん》の顔《かほ》を見《み》たと思《おも》ひねえ、俺《おれ》の玩弄品《おもちや》に、その、肖如《そつくり》さツたら。一寸《ちよつと》驚《おどろ》いた。 ‥‥‥ おまけに、俺《おれ》が熟《じつ》と見《み》てゐるうちに、瞼《まぶた》がぽツと來《き》たぜ。 ‥‥‥ ウ。」

 柘榴《ざくろ》の花《はな》が、パツと散《ち》る。
 「あ、衄血《はなぢ》だ。」
 「ウーム。」

 遊《あそ》び人《にん》の旦那《だんな》は仰向《あふむけ》に呻《うな》つた。夥多《おびたゞ》しい衄血《はなぢ》である。丁《ちやう》ど手《て》にした丼《どんぶり》に流《なが》れ込《こ》むのを、あわてゝ土間《どま》へ落《おと》したが、蕎麥《そば》も天麩羅《てんぷら》も眞赤《まつか》に成《な》つた。鼻柱《はなばしら》になほ迸《ほとばし》つて、ぽた/\と蒸籠《むいろう》にしたゝり猪口《ちよく》に刎《は》ねた血《ち》に、ぷんと、〓草《どくだみ》の臭《にほひ》がした。

 「お冷《ひや》し申《まを》して ‥‥‥ 」
 女房《かみさん》は土間《どま》へ片膝《かたひざ》を下《お》ろした。同伴《つれ》も深切《しんせつ》に懷紙《くわいし》を取《と》つて立《た》ちかけたが、壮佼《わかもの》が屈竟《くつきやう》だから、人手《ひとで》は要《い》らない。肩《かた》に引掛《ひつか》けると、ぐな/\と成《な》つて、臺所口《だいどころぐち》へ、薄暗《うすぐら》い土間《どま》を行《ゆ》く。四角《しかく》な面《つら》は、のめつたやうで眞蒼《まつさを》である。

 私《わたし》たちは、無言《むごん》で顔《かほ》を見合《みあ》はせた。

 水道《すゐだう》の水《みづ》が、ざあ/\鳴《な》るのを聞《き》きながら、酒《さけ》をあまして、蕎麥屋《そばや》を出《で》た。

 順《じゆん》はまた前後《ぜんご》した。洲崎《すさき》の辨財天《べんざいてん》に詣《まう》でたのは、此處《こゝ》を出《で》てからの事《こと》なのである。
 怪《あや》しき媼《うば》の言《ことば》が餘《あま》り身《み》に沁《し》みたから、襟《えり》も身《み》も相《あひ》ともに緊張《ひきしま》つて、同伴《つれ》が囀新道《さへづりしんみち》を覗《のぞ》いたといふにつけても、時《とき》と場所《ばしよ》がらを思《おも》つて、何《なに》も話《はな》さず、暮《くれ》かけて扉《とびら》なほ深《ふか》い、天女《てんによ》の階《きざはし》に禮拝《らいはい》した。
 で、その新道《しんみち》を横《よこ》に ‥‥‥ 小栗《をぐり》柳川《やながは》の漕《こ》がした船《ふね》は、むかしこの岸《きし》へ當《あた》つて土手《どて》へ上《あが》つた、河岸《かし》を抜《ぬ》けて、電車《でんしや》に乘《の》つた。木場《きば》一圓《いちゑん》、入船町《いりふねちやう》を右《みぎ》に、舟木橋《ふなきばし》をすぎ、汐見橋《しほみばし》を二度《にど》渡《わた》つて、町《まち》はまだ明《あかる》いが、兩側《りやうがは》は店毎《みせごと》軒毎《のきごと》に電燈《でんとう》の眩《まばゆ》い門前町《もんぜんちやう》を通《とほ》りながら ーー 並《なら》んでは坐《すわ》れず、向《むか》ひ合《あ》つた同伴《つれ》と、更《さら》に顔《かほ》を見合《みあ》はせたが、本通《ほんどほ》りは銀座《ぎんざ》を狭《せま》くしたのとかはりのない、千百《せんひやく》の電燈《でんとう》に粉《まぎ》れて、その蕎麥屋《そばや》かと思《おも》ふ暖簾《のれん》に、血《ち》の付《つ》いた燈《ひ》は見《み》えなかつた。



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