全一章・(その11) 泉鏡花作 |
「わあ、泥龜が、泥龜が。」 「あ、凡夫を駑かしては不可い。 ‥‥‥ 何だか、陰々として來た。 ーー 丁ど此處だ、此處だが、しかし、油倉だと思ふ處は、機械びきの工場となつた。冬木で見た、あの工場も、これと同じものらしい。」 つい、叱られたらあやまる氣で、伸上つて窓から覗いた。中で竹刀を使つてゐるのだと、立處に引込まれて、同伴が犬に怯えたかはりに、眞庭念流の腕前を顯はさうといふ處である。 久しぶりで參詣をするのに、裏門からでは、何故か不躾な氣がする。木場を一廻りするとして、話しながら歩行き出した。 「 ‥‥‥ 蠱といふ形を、そのまゝ女の肉身で顯はしたやうな、いまの話で思出すが、きみの方が友だちだから此方も友だちさ。以前 ーー 場所も同じ樣だが、何とかいふ女郎がね。一寸、その服装を聞いて覺えてゐる。 ‥‥‥ 黒の絽縮粫の裾に、不知火のちら/\と燃えるのに ‥‥‥ 水淺葱の麻の葉の襟の掛つた裲襠だとさ。肉色縮緬の長襦袢で、其の白襦子の伊達卷を ーー そんなに傍へ寄つちや不可ない。橋の眞中を通るのに、邪魔になるぢやあないか。」 下を二流し筏が辷る。 「何だつけ、その裲襠を屏風へ掛けて、白い切の漬島田なのが ‥‥‥ いや、大丈夫 ーー 惜しいかな、これが心中をしたのでも、殺されたのでも、斬られたのでもない。のり血更になしたよ。 (まだ學生さんでせう、當樓の内證は穏かだから、臺のかはりに、お辨當を持つて入らつしやい。 ‥‥‥ 私に客人があつて、退屈だつたら、晝間、その間裏の土手へ出て釣をしておいでなさいまし。 ‥‥‥ 海津がかゝります。私だつて釣つたから。 ‥‥‥ ) 時候は暑いが、春風が吹いてゐる。人ごとだけれども、眉間尺と較べると嘘のやうだ。」 「風葉さん、春葉さん、い、いづれですか、言はれた、その御當人は?」 「それは、想像にまかせよう。」 案内者にも分らない。 水の町の不思議な大深林は、皆薄赤く切開かれた、木場は林を疊んで堀に積み、空地に立掛けた板に過ぎぬ。蘆間に鷺の眼り、軒に蛙の鳴いたやうな景色は、また夢のやうである。 ーー 鶴歩橋を見た。その橋を長く渡つた。名の由來を知りたい方々は、案内記の類を讀まるゝがよい。私はそれだからといつて、鶴歩といふ字にかゝづらふわけではないが、以前知つた時、この橋は鶴の首に似て、淡々たる水の上に、薄雲の月更けて、頸を皓く眠つてゐた。 ーー 九月の末、十月か、あれは幾日頃であつたらう。折から此の水邊の惠此壽の宮の町祭りの夜と思ふ。もう晩かつたから、材木の森に谺する鰐口の響きもなく、露地の奥から笛の音も聞えず、杜頭にただ一つ紅の大提灯の霧に沈んで消殘つたのが、 ‥‥‥ 強ひて擬へるのではない、さながら一抹の丹頂が似て、四邊皆水。且行き、且、彳む人影は、斑に黒い羽の影を落して、橋をめぐつた堀は、大なる兩の翼だつたのを覺えてゐる。その時、颯と吹いた夜嵐に、提灯は暗くなり、小波は白い毛を立てて、空なる鱗形の雲とともに亂れた。 鶴の姿の消えたあとは、遣手の欠伸よりも殺風景である。 しかし思へ。鹿島へ詣でた鳳凰も、夜があければ風説である。 ーー 鶴歩橋の面影も、別に再び月の夜に眺めたい。 |